私は、2012年3月28日、京都・東本願寺にて超覚寺第17世住職を拝命いたしました。新住職としての使命は、超覚寺有縁の皆さま方と共に、宗祖親鸞聖人が生涯大切にされた「お念仏の教え」を聴聞させていただくことに尽きます。教えを聞く姿勢ができているのか、お寺が教えを聞く場として開かれているかどうか、常に私自身の姿勢が問われています。 |
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和田隆彦(釈隆恩)拝 合掌 | |
1619(元和5)年、紀州和歌山藩主・浅野長晟が安芸広島藩に国替えとなった時、和歌山城下にあった長覚寺の僧侶、慶清(俗姓北畠。紀伊国・長覚寺住持。70歳で安芸国に来て97歳で還浄。)も行を共にしました。広島城京口御門の近くに3,000坪の土地(福島正則時代は野間六兵衛の屋敷跡)を与えられ超覚寺を開基しました。大手門付近にあった国泰寺が浅野家の菩提寺であったのに対して、超覚寺は上級藩士の菩提寺としての役割を担っていました。寺紋の「丸に違い鷹の羽」は浅野家と同じ紋です。同時期に広島入りし代々家老として藩主に仕えた、「武門ノ茶」上田宗箇流の宗家として知られる上田家には、江戸時代に超覚寺の住職から宛てられた手紙が幾通も残っています。 和歌山の長覚寺は元々真言宗でしたが、室町時代、浄土真宗中興の祖、蓮如上人(1415〜1499)に帰依し、浄土真宗に宗旨替えしました。ちなみに浄土真宗本山である本願寺は1602年までは一つでしたが、織田信長との石山合戦(1570〜1580)で和睦派と籠城派に二分し、1602年に徳川家康が籠城派に寺領を寄進した時点で東西分裂は決定的となりました。浅野家が和歌山から広島に国替えになった江戸初期は、長覚寺は【本願寺派“お西”】に属していましたが、なぜ広島の超覚寺は「母寺」と異なる宗派に属したのでしょうか? 和歌山の浄土真宗のお寺はほとんど“お西”。一方、広島も【安芸門徒】という呼称で知られる“お西”の有力な国。そこに入封する際、浅野氏は【大谷派“お東”】に肩入れして、豊臣家と縁の深い“お西”の勢力を削ごうとする徳川家康の意を汲んで、あえて超覚寺を“お東”にしたのでは、と推察されます。1630(寛永7)年に寺号の「長」を「超」に変えた背景にも、このあたりの経緯が何らかの形でからんでいるのかも知れませんが、今となっては調べる術がありません。長覚寺は元禄の頃の火事で全焼し、それ以前の文書もことごとく灰になってしまったからです。 国泰寺と超覚寺に広大な寺域が与えられたのは、戦が起きた時に兵を駐屯させる役目も担っていたからですが、天下泰平の江戸時代には超覚寺の境内に兵馬がひしめくことはありませんでした。しかし明治維新を境に状況は一変し、1873(明治6)年、広島城内に陸軍第5軍管広島鎮台が設置されました。1894(明治27)年には日清戦争勃発を機に大本営が広島に移され、明治天皇来臨のもと、臨時帝国議会が開催されました。こうして広島城は日本有数の軍事拠点となり、広島は「軍都」としての性格を強めていきました。1931(昭和6)年の満州事変勃発後、日本は戦争の泥沼にはまり込みました。太平洋戦争が始まると、超覚寺も陸軍の上級将校に宿舎を提供するようになり、毎朝、広島城にある軍司令部から迎えの馬が遣されていました。1945(昭和20)年8月6日の朝も、いつもと同様に数等の馬が超覚寺境内に繋がれていました。そして8時15分、原子爆弾投下。地獄絵図の片隅には、黒こげになった哀れな馬の姿もありました。無論、超覚寺も灰燼に帰しましたが、本堂寄宿舎化のため郊外の門徒総代宅に疎開させていた阿弥陀如来像・総門徒過去帳は消失を免れました。 超覚寺の歴代住職の姓は「北畠」でした。北畠家は村上源氏中院家から分かれた名門で、その子孫である中院雅家が洛北の北畠に移ったことから北畠を名乗るようになりました。鎌倉末期の北畠家当主・北畠親房は後醍醐天皇に仕えて建武の新政を支え、南北朝の動乱期、南朝の思想的・軍事的指導者として活躍しました。山号・院号は、北畠大納言親房の隠居後の草庵「林鶯山憶西院」から由来しています。その北畠家は太平洋戦争時に第15世で代が絶えてしまい、しばらくの間は明円寺(福山市鞆町)住職の松江師(母親が超覚寺出身)が兼任で代務住職をしていました。その後1965(昭和40)年に、松江家の親戚筋である和田教恩師(京都市東山区)が超覚寺を託されました。 現在はその孫である和田隆彦が住職を務めております。 |